例会記録

2023年3月例会記録

「行灯の民俗」高橋 貴(2023.3.29)

「行灯の民俗」高橋 貴 例会報告まとめ(PDFファイル)

【感想】
 今回の発表は、膨大な時間を費やされてまとめられた、行灯の民俗の集大成である。「暇があるから」と謙遜されていたが、西鶴をはじめとする近世の文献を渉猟し、これだけの行灯に関する情報を提示されたこと自体、たいへん感心をしてしまった。
 行灯のルーツは持ち運びを前提とした灯火具であることをまずは説明されたが、そういえば、行灯の「行」の文字にはそうした意味が込められていることに気づいた。やがて提灯が普及したため、行灯は室内に置いて使用することが主流になっていったとされる。確かに携行には提灯の方が便利であっただろう。ただ、提灯にはロウソクを用いる点が行灯とは異なり、ロウソク代は灯油代よりもはるかに高かったと思われる。室内灯としての行灯の普及は、江戸時代中期以降、各藩が菜種や木棉の栽培を奨励したこともあって、種油、綿実油の生産量が増えたことが関係していよう。灯油原料として、荏胡麻から菜種、綿実への転換がどのように進んだのかが気になった。
 行灯は、今では時代劇くらいでしかお目にかからないが、1990年代の聞き書き調査では、大正から昭和初期にかけての行灯の使用例を聞くことができた。旧甚目寺町の明治44年生まれの話者は、「昔は相手がよく分からないで結婚するということがよくあった。兄の歳がいっている場合、見合いのときは弟を代わりにしたという話も聞いた。結婚式をやっても行灯の火で明るくはないので、朝になって、考えていた男と違う者が夫だったということもあった」と語り、行灯の明かりが心もとないものであったことを伝えている。春日井市下市場の明治37年生まれの話者は、「大正時代末期には、夜は行灯やランプしかなかったので夜なべの仕事はあまりやらなかった」といい、電灯が灯る以前、行灯の活躍した時代の夜が本当に暗かったことが察せられる。そう考えると、テレビの時代劇の夜の場面はあまりに明るい。
 今回の発表の中で一番興味を持ったのは、甲子の日、とりわけ11月の甲子の日に灯心を買うと縁起がよく、子灯心と呼ばれていたことである。大黒天は子(北)の方角の神とされ、ネズミは大黒天の使いとされることから、甲子の日には大黒天を祀る甲子講が営まれ、甲子待ちといって子の刻まで寝ずに起きている習慣があった。豊川市千両の事例だと、甲子の日の夜、当番の家に講の仲間が集まり、大国主命の掛軸を祀って会食をしたという。大国主命は大黒天と同一視されている。夜更かしのためには行灯に火を灯す必要があり、それが灯心の購入につながったのかもしれない。
 行灯に関する新たな発見はこれからもどんどん出てきそうである。次回の報告を楽しみにしたい。

(文責 服部 誠)