例会記録

2024年1月例会記録

「地獄芝居「鬼来迎」について」駒井祐香(2024年1月31日)

はじめに
 下総国では、利根川沿いにある寺院を中心として仏教劇を講演していた。しかし、年々減少していき、いつしか続けているのは広済寺のみとなった。その結果、民俗芸能として、国の重要無形民俗文化財の第1回指定を受けた歴史を持つ。そのため、発表者は民俗芸能に関する伝承の実態や実情を観察してみたいと感じ、調査を実施した。その結果から、鬼来迎の現状について報告する。

鬼来迎とは
 千葉県山武郡(さんぶぐん)横芝光町の虫生(むしょう)地区にある広済寺という新義真言宗智山派の寺院で行われている地獄を題材とした仏教劇であり、創始は鎌倉時代にまで遡る。特徴としては、舞台を始める前に、舞台上に鬼役が塩を撒く「舞台浄め」という儀式を実施することや、専用の鬼舞面を使用していることが挙げられる。
 開催は毎年、旧暦7月16日にあたる8月16日である。劇は2章・7段構成で、劇中では、仏教の因果応報の理法を説いている。所要時間は約1時間半~1時間45分ほど、尚、演者はすべて虫生地区の人々で構成されている。一部の住民からは、「鬼舞い」と呼ばれている。
広済寺がある千葉県山武郡横芝光町は、千葉市と調布市のほぼ真ん中に位置し、町の南側は九十九里浜に面している。周囲は小高い丘があり、平担な田畑の中に農地が存在しているのどかな町である。その中でも虫生地区は、戸数がわずか二十戸程度であり、町民の多くが専業農家か兼業農家を営んでいる。

はじまり
 鬼来迎の始まりは、鎌倉時代の初期、後鳥羽院の時代にまでさかのぼる。薩摩の禅僧、石屋(せきおく)が衆生救済のために諸国を遊行していた時、たまたま虫生の里に立ち寄り、この地の辻堂で仮寝をすることになった。その夜、石屋は夢で妙(みょう)西信女(さいしんにょ)という17歳の少女が地獄の鬼に責められる夢を見た。翌日、墓参りにきた妙西の椎名(しいな)安芸(あきの)守(かみ)と言葉を交わす中で、夢で見た鬼に責められていた少女は椎名安芸守の娘であることが分かった。そこで、石屋が昨晩見た夢の中に妙西信女(いきているのか、死んでいるのかわからないため、はっきり生死を書いておく)がでてきたことを話すと、椎名安芸守は突然、自身の悪行(年貢を厳しく取り立てていたこと)を悔い始めた。そして、娘の法名を妙西から広西と改め、彼女の菩提を弔うために建久7年の夏に、慈土山地蔵院広済寺を建立し、開山する運びとなった。
 ところが、開山から数日経つと、虫生の里に突然落雷し、寺の庭に靑・黒・赤・白の4色の鬼面と、祖老母の面などが天から降ってきた。この出来事を不思議に思った石屋は、降ってきたお面全て境内にとどめ置いた。一方、鎌倉に居住していた彫刻師、運慶・湛慶・安阿(あんあ)弥(み)(快慶の法号)の三人が、たまたまこの様子を夢に見た。さらに、夢の中では、この行動によって亡者が鬼の責め苦から免れて、菩薩に救済されていたという情景まで見た。この情景に大変感動した3人は、わざわざ鎌倉から虫生の里まで訪ねて来て、石屋と会った。3人から夢の話を聞いた石屋は、自身が見た辻堂での亡者に対する地獄の呵責の様子と、それを救った菩薩の慈悲のありさまを伝えた。そして石屋は、この出来事を来世まで残したい、同じことが起こらないように大衆の仏教教化をはかりたいと申し出た。それを聞いた3人は、早速、閻魔大王・倶生(くしょう)神(じん)・祖老母、黒鬼、赤鬼などのお面を作成し、自身で身に着け、石屋の徒弟にも協力してもらい、一連の出来事を劇に変えて講演した。これが、はじまりとされている。(鬼来迎保存会『鬼来迎』より)

内容
 ここで、章構成や登場人物について軽く紹介する。
(1) 順序
・地獄譚
 大序→賽の河原→釜入れ→死出の山
・広済寺建立縁起
 和尚道行→墓参→和尚物語
(2) 登場人物
(表1 鬼来迎の登場人物一覧)

役名役柄
安芸守虫生地区を治めている。(かお)()の夫で、妙西信女の父。
閻魔大王地獄の裁判官で、浄玻璃の鏡を用いて亡者を裁く。
和尚石屋和尚のこと。広済寺で教化活動をする。
赤鬼と黒鬼の2匹。亡者を痛めつける。
鬼婆場面ごとに登場し、鬼と共に亡者を苦しめる。
顔世安芸守の妻で、妙西信女の母。
観音地蔵菩薩の化身として、亡者を鬼から救済。
倶生神浄玻璃の鏡を用いて、亡者の生前の行いを閻魔大王に伝える。
地蔵菩薩衆生救済を説き、鬼から子供の亡者を救済。
妙西信女死後、地獄に堕ち、鬼たちから苦を受ける。
亡者生前の行いの報いとして、鬼から罰を受ける。
安芸守の従者。

(3) 各題目の詳細
(表2 鬼来迎の詳細一覧)

題目内容
舞台浄め2匹の鬼が「ホッホッホ―」と奇声を上げながら登場し、舞台上に塩を撒いて「舞台浄め」の儀礼を行う。
大序最初に閻魔大王が登場すると、倶生神、鬼婆、鬼、亡者の順に登場し、全員が揃ったら、閻魔大王が倶生神に浄玻璃の鏡を取らせ、亡者の裁きを行う。
賽の河原子供の亡者が登場し、石を積み重ねるが、その度に鬼に崩されてしまう。すると、地蔵菩薩が登場し、鬼を跳ね除ける。
釜入れ舞台中央に釜が用意されると、鬼婆と亡者、2匹の鬼が登場し、亡者を釜に入れると、棒でかき混ぜる仕草をする。混ぜ終わると、亡者を棒につるし上げると、下手に連れ去ってゆく。
死出の山鬼に追われて亡者が登場すると、鬼婆は退場する。すると、鬼たちは亡者をいたぶるが、観音が救済し、鬼たちは悔しそうに退場する。
和尚道行下手より石屋和尚が登場し、一休みしようと眠りにつく。すると、夢の中で妙西信女が登場し、その後を追いかけ2匹の鬼が出てきて連れ去ってゆく。
墓参石屋和尚が安芸守とその妻・(かお)()、主従・奴に出会い、夢で見た妙西信女は安芸守の娘だと判明する。
和尚物語石屋和尚は自身が見た夢を安芸守に話し、安芸守は娘の法名を「広西」と改め、成仏できるよう広済寺を建立し、石屋和尚は教化活動する。

聞き取り調査
 鬼来迎は鎌倉時代より現存する貴重な仏教劇であるため、文化財指定されていると冒頭で紹介したが、どのように続けられてきたのかなど、保存の観点から観察してみたいと感じた。そのため、町民の方々にご協力いただき、聞き取り調査を行った。以下がその概要である。
(1) 概要
調査日:2023年8月16日(水)
対象者:11人
内訳: 演者4人、元演者2人(うち一人は現在、裏方)、Uターン住民1人、広済寺助役、保存会会長、町役場職員2人
年齢:70代3人、60代1人、40代4人、30代1人、20代1人、10代1人
(2) 主な質問内容
・出身と年齢
・「鬼来迎」は回答者にとってどんな存在か
・「鬼来迎」を続けていく上で、気をつけていることはあるか    など
―対象者から後継者不足の声を聞いて―
・これからも「鬼来迎」を続けていきたいか
・どうしたらこの問題に対処できると思うか     など
 (3) 聞き取りでわかったこと
役場の方たちが挙げる課題
・町全体の高齢化による担い手不足していること
・夏場開催による熱中症の危険性があること
・国の重要文化財だが、認知度が低いこと
・職員の若年化、非地元出身者増加していること
・町が存続の危機感を感じ、2023年度はPR活動をしたり、初めて最寄りの横芝駅から広済寺まで無料シャトルバスを運航したりしたが、今後もできるか不透明であること
保存会の方たちが挙げる課題
・若年層の流出・減少による参加者不足していること
・町全体の高齢化による担い手不足していること
・備品の修理・保存に不安があること
・多くの人が地獄譚のみ鑑賞し、後半の広済寺建立縁起を見ずに帰ってしまうこと
・夏場に行われるため、熱中症の危険性があり、劇を短縮化する傾向にあること
・開催地である広済寺の住職が、町外からきた若い住職であるため、関係性が希薄なこと
 (4)問題への対策
役場の方たちの対策案
・職員の若年化と非地元出身者への対策→若い職員、地元出身ではない職員を派遣
・認知度対策→若い人によるSNSなどを用いたPR活動、予算を組んで支援
・熱中症対策→SNSで事前に危険指数を通知。職員が会場で呼びかけ
保存会の方たちの対策案
・劇の対策→後援会主体だったが、町と協力してPR
・担い手不足・修理/保存対策→外部の参加者に頼る方向で模索
・参加者不足対策→存続のために、元演者の高齢者に協力を呼びかけ

まとめ
・文化財として残していきたいが、虫生地区の高齢化・若年層の流出などの問題から、存続の危機が今後さらに現実味を帯びてくると、聞き取り調査を行った全員が口にしていた。
・また、聞き取りを行った範囲では、鬼来迎に関する台本などの資料に関して、現存していないようである。虫食いなどが要因となり、廃棄してしまったのでは?という声も多かった。
・鬼来迎に関して現存している資料はないが、演者は代々口承で繋いでおり、演者は先代から同じように教わっているため、それが当たり前だと認識していた。
・人口減少の問題から新たな担い手が少ない。例えば、子供の亡者役だと、なり手が年々減少しており、ここ数年は3人ほどである。このままでは、参加してくれる子供を虫生地区で集めることも難しく、外部の力を借りる必要性が高まっている。

おわりに
 鬼来迎に関して、広済寺関係者の方々が快くインタビューを受けてくださり、とてもありがたかった。協力いただけた結果、多くの人が、「鬼来迎」という文化を絶やさぬよう、熱心に活動していることが分かった。
 しかし、それと同時に、疑問点も多く生まれた。特に、原因の特定は困難だと思うが、鬼来迎が誕生した年代や伝承など不確かな部分があるため、芸能として親しまれた可能性などを念頭に置き、深堀りしていきたい。また、上記で挙げたことは、自分の調査不足が原因であるため、修論執筆に向けて、さらに調査を重ねる必要性を実感した。調査地が遠方のため、足で稼ぐことはあまりできないが、その分、今回得られた意見や情報を基に史料調査を行っていこうと思う。

【参考文献】
赤松宗旦著、柳田國男校訂、『利根川図志』、岩波書店(1938)
生方徹夫、『鬼来迎』、麗澤大学出版会(2000)
生方徹夫、「鬼来迎研究(1)-(12)」、『麗沢大学紀要』(58)-(67)/『麗沢大学論叢』(9)-(10)、麗沢大学、(1994-1999)
加藤雀庵、『さへづり草(むしの夢)』、一致堂(1910)
鬼来迎保存会、『鬼来迎』(出版年不明)
斎藤英喜・井上隆弘編、『神楽と祭文の中世』、「第9章「浄土神楽」論の再検討―『六道十三佛之カン文』の位置づけをめぐって―(鈴木昂太)」、思文閣出版(2016)
多古(たこ)町/多古町デジタルアーカイブ (adeac.jp)
ポーラ伝統文化振興財団、「鬼来迎:鬼と仏が生きる里」、ポーラ伝統文化振興財団企画、桜映画社製(2014)
三隅治雄、「来迎会と地獄芝居―房総の念仏芸 二―」、『芸能の科学』(14)、東京国立文化財研究所、(1982)

【感想】
 長野市の善光寺の近くに、石童丸ゆかりの西光寺がある。江戸時代前期作の「苅萱道心石童丸御親子御絵伝」を伝え、お庫裡さんが絵解きをしてくれることで知られているが、この寺には「六道地獄絵」も伝わり、希望すれば、これについても絵解きを聞くことができる。6幅のうち5幅は地獄を描いたもので、三途の川で奪衣婆に着物を剥ぎ取られたのち、鬼たちに苛まれる人々が描かれている。叫喚地獄。黒縄地獄など、さまざまな地獄の描写ののち、阿弥陀の来迎の場面となり、亡者たちは極楽に導かれる。こうした地獄についての絵解きは、かつては熊野曼荼羅を携えた熊野比丘尼などが各地を回っておこなっていたもので、怖いもの見たさに集まった多くの人を惹きつけていた。地獄についての知識はこうして広まった。
 今回の発表を聞いて、この地獄絵の絵解きを思い出した。絵伝や曼荼羅を用いた絵解きが二次元の世界であるとすれば、地獄芝居は三次元のスペクタクルである。発表中に指摘のあった「さへづり草」の記述によれば、地獄芝居は群馬、栃木、千葉などで流行し、各地を巡業した者たちがいたようである。地獄芝居の盛り上がりに対し、例会では「幕府は地芝居に対しての禁令を度々出しているが、宗教に仮託すれば見逃されることもあり、地獄芝居もそうした状況のもとで流布した可能性がある」という指摘があった。その通りであろう。
 発表者の駒井氏は、学部生の頃から地獄に興味を持って研究を始めたという。近世の文献を渉猟し、各地の地獄芝居の様子がさらに明らかにされることが期待される。
(文責・服部誠)