2023年1月例会記録
「志摩の咄天罡鬼神」津田豊彦
はじめに
志摩の咄天罡鬼神については「民俗学の視座」(堀田吉雄先生カジマヤー記念)にも所収されている。この本は、堀田吉雄先生が97歳になったお祝いの記念として出されたものである。この本を出すにあたって尽力された伊藤良吉氏は、沖縄での調査をたくさん行われているが、沖縄では97歳の時にカジマヤーといって、一度死んだものとして葬式のようなことをし、生まれ変わったとして祝う習わしがある。堀田先生のためにこれをやろうということで伊藤氏が呼びかけをし、記念の本が刊行された。この本には、伊藤良吉氏の力により、民俗学会のそうそうたる人たちが寄稿をしている。
その堀田先生と伊勢を回った時、南勢町の斉田で、咄天罡鬼神という、訳のわからないものが祀られていることを教わった。シュッテンコウという読み方をする人もあり、ダテンコウと読むのが正しいのかどうかはわからないが、志摩地方ではそう言っている。テンコウの部分は正しい。字の当て方もいろいろであり、口偏のこの字は漢和辞典にはない。
志摩では正月にダテンコウという札を作って家の前に飾る習慣があり、現在もやっていると思われる。民俗事例だけではなく、木簡や文献などに登場するダテンコウについても紹介をしたい。
1 志摩の咄天罡鬼神
取り上げる調査地は菅島、石鏡、坂崎、国崎、松尾である。
●菅島の門松とダテンコウ鬼神
菅島では、正月に出入りの大工がダテンコウ鬼神の木札を持ってくるので、これを門松の下部に祀る。門松の形態は各家で違い、松にお供えを入れるツトが付けられているものもある。門松がなく、カドに木札のみを祀るところもあり、木札の裏に、魔除けのセーマン(☆)やドーマン(九字)を描くものもある。セーマンは安倍晴明の紋、ドーマンは蘆屋道満の紋で横に4本、縦に5本と、十字をたくさん重ねたものである。木札は正月二十日に白山社に納める。
●国崎のノット正月
1月17日、オシキの中に小銭と米のおひねり、ナマスなどを入れて海岸に持参し、海岸で海に向かって木札を立ててお供えをする。波が寄せるとお札は倒れてしまう。藁も持参し、これを使って歳徳船を作る。漁協からはお櫃の中に米2合を入れたものと、歳徳船と書いた半紙が渡される。半紙で作った人形とともに、海岸のお札を歳徳船に入れて火を付け、沖に流す。
●石鏡のお札書き
12月13日は正月の始まりとされる。この日の朝早く、港で頭人が松を切ってきて、四角に立てて祭りの場所を作る。裃姿の長老2人、着物の着流しに縄帯を締めた頭人が祭りに参加する。頭人はイノガイを12個(閏年は13個)用意し、長老は墨をすって木札に「ダテンコウ鬼神」と書いて供え物をする。石鏡は、昔は船でしか行けないようなところであったが、ムラに入る道が4箇所あり、そこにダテンコウ鬼神のお札を立ててゆく。また、お宮には千本幟(紙に書いたもの)を立てる。各家でも大晦日の頃に書いて木札を立てるが、置き方は家ごとに違う。
●坂崎のタイの祭り
正月3日、25歳までの若い衆(未婚者)がカゴを持ってムラ中を回り、餅を集める。一軒の頭屋のところに集まって大きなしめ縄を作る。頭屋は前の者を古頭、次の者を新頭と呼ぶ。しめ縄の長さは7間で、途中にダテンコウ鬼神の木札をつける。若い衆たちはしめ縄を持ってムラじゅうを回り、頭と尻尾を持つ者の年齢は決まっている。頭の役の者は刀を一振り持ってゆく。ムラを回る途中、隙を見ては歩いている若者をしめ縄でぐるぐる巻きにして身動きできないようにしてしまう。縛られた者は酒一升を出すことになっていて、こうしたことを途中で何度も行ってゆく。ムラを回った後、一行はタイの森に行き、そこに祀られる祠の前にしめ縄を回してかけ、刀を持った頭と年上の者たちでダテンコウ鬼神のお札を祀り、カケノウオや集めた鏡餅を供える。お供えをした後、一番の頭は持ってきた刀でお札を3回ほど斬りつける真似をし、他の若い連中は森の外から小石を投げつける。祠にお供えをしている者たちは、石に当たらないように隠れる。
●斉田の山の神
ここの山の神には男根型のネムノキの丸太が置かれ、そこにダテンコウのお札が祀られる。ダテンコウを祀った翌日、山の神祭りが行われる。
2 木簡や文献に見るダテンコウ
志摩以外のものでは、木簡の研究でダテンコウの存在が知られる。木簡にはダテンコウの字とともに、怪しい人形が描かれたものもある。木簡は草戸千軒遺跡などからも出土しており、西日本でよくみられるが、東北には少ない。
奈良の元興寺の中世庶民信仰資料の中に夫婦離別祭文、夫婦和合祭文があるが、ここにもダテンコウ鬼鬼と記されている。
善光寺に伝わる善光寺縁起に登場するダテンケン鬼は、長者の娘・如是姫を病気にする悪神となっている。この縁起には天刑星や牛頭天王なども登場している。困って阿弥陀三尊に参ったところ、如是姫の病は快癒した。この阿弥陀三尊が、蘇我氏と物部氏の争いを招く、百済経由で日本にもたらされた仏像で、難波の堀江に捨てられたあと、善光の名を呼んで拾われ、善光に背負われて長野に行くことになる。
伊勢神宮の遷宮の際、木を切るときの祭文にテンコウが登場する。また、水滸伝の中には、テンコウ星組36人(幹部)、チサツ星組72人(子分)が登場しており、アウトローたちがテンコウ星を名乗っていたことがわかる。
おわりに
牛頭天王も元は悪神で、木星と言われる天刑星に食べられる辟邪絵が伝えられる。悪神の牛頭天王は、一方では災いを防ぐ側面も持っているが、それと同じで、ダテンコウは本来は悪いことをする神らしいが、一方では災いを封じる二面性を持っている。正月の志摩の行事では、歳徳船に乗せられて追放されたり、ムラ境に祀られて邪を防いだりと、ダテンコウの二面性を見て取ることができる。人々は、悪でも善でも強い力を持っているものを利用しようとしてきたと言える。
【質疑応答】
Q:ダテンコウと星信仰とはどのように関わっているのか?
A:ダテンコウは本来は北斗七星や北極星に比定されるもので、道教、陰陽道の神として日本に伝わったものであろう。妙見信仰などとも関係があるかもしれない。
Q:志摩地方にダテンコウの信仰が広まっているのはなぜか?
A:鳥羽市河内町の庫蔵寺が関与しているという。
【感想】
昨年11月の例会発表、竹内麻耶華氏「 「内津妙見」の分析」に関連し、1月例会では津田豊彦氏が「志摩の咄天罡鬼神」の発表をおこなった。
ダテンコウは陰陽道に由来するまじないに登場する神である。文献や出土する木簡から古代・中世から信仰されていたことがうかがわれ、それが現在でも志摩地方の正月行事に受け継がれていることにロマンが感じられた。ダテンコウは本来は邪悪なものであるが、その力の強さのゆえに邪を防ぐ存在としても用いられている。そうした点は、蘇民将来の伝説などにも通じるものがある。
志摩地方にはドーマン・セーマン、蘇民将来をはじめ、陰陽道と関わるまじないがたくさん残されている。ダテンコウ信仰について、庫蔵寺の活動との関連が指摘されたが、同寺は真言宗で、朝熊山の金剛証寺の奥の院とされている。永禄4年(1561)建立と伝える本堂と、慶長10年(1605)に九鬼太郎五郎丸が再興した鎮守堂は、ともに国の重要文化財に指定されており、本堂は虚空蔵菩薩、鎮守堂は鬼子母神を祀っている。鬼子母神は法華経の守護として日蓮宗で重んじられるが、ここからも妙見信仰とのつながりが感じられる。庫蔵寺は近鉄加茂駅から徒歩1時間40分の山中にあるというが、まだ訪れたことがない。
余談であるが、菅島の事例で、門松の下部にダテンコウの木札を立てる点は、奥三河地方などで門松下部に「十二月」、あるいは12本の線を描いた割木を立てることと似ている。割木のことをオニと呼んだり、「鬼木」と書くところもあり、本来はおニュウギ(祝木)と呼んだものがおニンギ、おニギ(鬼木)と転じたのかもしれないが、正月は鬼や魔が出現する機会であり、それを封じるという意識があったことは確かであろう。
(文責 服部 誠)
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