例会記録

2023年10月例会記録

「知多四国霊場の現状」小早川道子(2023年10月25日)

はじめに
 知多四国八十八箇所霊場は、全国にある写し霊場のなかでも特に知名度が高いこと、巡拝者数が多いこと、環境整備も進んでいることなどから、日本三大新四国霊場のひとつに数えられている。中京大学文学部民俗学研究会では、2021・2022年度の2年にわたり、知多四国霊場の調査を実施し、研究発表をおこなった。その成果から、知多四国霊場の現状について報告する。

1 写し霊場
(1)写し霊場とは
 写し霊場とは、西国三十三観音霊場や四国八十八箇所霊場(本四国)を模してつくられた地方霊場のことをさす。誰もが西国・本四国へ行けるわけではないが、巡礼をしたい、という欲求から、各地に写し霊場をつくることが流行した。
 最古の写し霊場は鎌倉時代初期に起源をもつ板東三十三所であるが、流行期は江戸中期以降、次の4期に分けられる〔柴谷 2008〕。
  第1期:江戸中期~後期(庶民の旅が流行)
  第2期:明治の廃仏毀釈後(廃仏毀釈を経た後の再興)
  第3期:昭和戦前(巡礼の流行)
  第4期:昭和40年代後半~(再興と観光との結びつき)
 知多四国霊場の開創は第1期にあたり、写し霊場としては比較的早い時期の成立になる。
 知多四国霊場は、行程の全長約194kmにわたり、小豆島八十八箇所(香川県、全長約150km)、篠栗四国八十八箇所(福岡県、全長約50km)とともに、日本三大新四国霊場に数えられている。こうした写し霊場は、全国に1400箇所以上あり、愛知県には知多四国霊場のほかに、尾張三十三観音、南知多三十三観音、三河新四国などがある。小規模なものとしては、佐久島の「島弘法」、大崎上島八十八ヶ所(広島県)など、各地に数え切れないほど存在する。大崎上島などは、目の前が四国であるにも関わらず、島内で完結する写し霊場がつくられている。背景には、長期間の巡礼は難しい、短期間でも巡礼したい、という需要があったと考えられる。
(2)知多四国八十八箇所霊場について
【歴史】
 知多四国八十八箇所霊場は、文化6年(1809)に尾張国知多郡古見村・妙楽寺住職であった亮山が弘法大師の夢告を受けて本四国を巡拝し、その後岡戸半蔵・武田安兵衛らとともに知多半島に写し霊場を作るべく尽力したことに始まる。およそ15年後の文政7年(1824)に、准四国霊場として開創、明治26年(1893)に知多新四国霊場と改称した。知多四国霊場と改称したのは、昭和58年(1983)のことであり、現在も「新四国」とある標柱などは多数残されている。
【特徴】
 知多四国霊場の特徴は、本四国と異なり、真言宗以外の宗派の寺院が多く含まれていることである。この地域に真言宗寺院が少ないこともあるが、88か寺のうち真言宗(豊山派・智山派)寺院は39か寺である。多数を占めるのは曹洞宗寺院で、ほかに浄土宗、天台宗、臨済宗、時宗の寺院も参加している。また、明治以降の廃仏毀釈の影響で一部の寺院の移動はあるものの、ほとんどの寺院が開創時のまま残っている。
 このほか、巡礼者を「お遍路さん」ではなく「弘法さん」と呼ぶこと、徒歩で12~15日、車で2泊3日で一巡できることなどが特徴として挙げられる。

2 四国・西国への巡礼
 写し霊場をつくるほどに人々が憧れを抱いていた本四国・西国巡礼について、実際に巡礼した話をいくつかみておきたい。
(1)春日井市松河戸の西国巡礼
 春日井市松河戸では、西国三十三観音霊場へ一生に一度は参るものとされ、10年に一度程度、若者が同行を組織して巡礼に出た。経験者である先同行が助言し、金銭的な支援などもおこなったという。巡礼に出た際は、後の参考になるよう、記録係を決めて道中記をつけた。現在残されている道中記によれば、明治36年には2月5日から34日間、大正10年には鉄道を利用して2月16日から26日間という行程であった。三十三観音霊場だけでなく、伊勢参り、京都・大阪見物、金比羅参りも含めた長旅であった。戦後になると、農業主体から会社勤めの人が増えて長期間の巡礼が難しくなり、2年に分けて行くようになった。
 巡礼から帰ってくると、観音寺境内の西国観音堂に観音像を一体建て、年1回同行でお参りした。同行は50年経つと軸や鉦を三十三番の谷汲山に納めて解散となったが、付き合いは一生続き、葬儀の際は同行が一番に招かれ、葬列の一旗・二旗を持った。
 松河戸の事例は、男性の通過儀礼的な要素が強く、見聞を広めることと、村内での紐帯を強固にするという目的が顕著な点が特徴といえる。
(2)女性の巡礼
①宮本常一の叔母の話

 宮本常一「女の世間」に、幕末~明治初年生まれと思われる叔母が四国を巡礼した話がある。世間を知らない娘は考えが狭くなるので嫁のもらい手がない、という意識が明確に語られている点には注目される。彼女は19歳のときに女友達3人ほどで、土佐を除いた「女四国」をまわったという。善根宿が多くあり、春はお接待も出て食べ物には困らなかった。食べ物がなくなると和讃や御詠歌をあげて貰い物をし、出発した時よりも、帰った時の方が所持金が増えていたほどだった。厳しい生活の地域について「生れ在所によっては苦労せにゃァならんもんじゃと」といった言葉には、見聞を広めることで自分や他人の境遇を思いやれるようになったことが表れている。
 周防大島からは、四国へ行かない者は10日余で廻れる出雲などへ行ったといい、短期間であっても旅の経験が必要とされていたことも興味深い。
②知多半島の奉納絵馬
 知多半島には、女性の同行を描いた奉納絵馬が多く残されている。絵馬を見ると、男性の先達が女性たちを連れて巡拝していたことがわかる。かつては西国巡拝を思い立った娘が、肉親にも告げずに着のみ着のまま、こっそりと船に乗せてもらって巡拝に出たという。いわゆる「抜け参り」の形である。
 このように男女とも「世間を知る」つまり見聞を広めることを目的とした四国・西国巡礼が行われていたのである。また、ここには巡礼という大義名分のもとに旅をしたいという欲求があったことも見過ごせない。

3 知多四国霊場めぐりの変化と観光化
(1)変化と観光化の歴史

 知多四国霊場の巡拝が、徒歩から自転車へと変化したのは、大正~昭和初期のことである。自転車による巡拝は大正3年から、タクシーは大正7年から利用されるようになったという。また、愛知電鉄(名鉄の前身のひとつ)による知多四国参拝への利用促進が、大正6年頃には既に行われていた〔橘 2021〕。バス・タクシーによる巡拝の本格的な流行は、高度経済成長期以降のことである。
 1960年頃が巡拝の最盛期で、年間10万人が訪れたという。名鉄ほか旅行会社がバスツアーを催行し、これは現在も旅行パンフレットなどでよく見かけることがある。かつては講での団体巡拝が主流であったが、現在は自家用車による個人巡拝中心に変化している。
 旅行会社のツアーは、先達がガイドとして同行し、何回かに分けて巡拝することが多い。昼食にその土地の名物を食べて、夕方4時半頃に解散となる時程である。これは主婦層をターゲットとして想定していることが明らかであり、先述した女性の巡礼を想起させる。家を空けることがままならなかった主婦層が、信心という大義名分のもとに小旅行気分を味わいたい、という需要をとらえたものといえよう。
(2)巡拝者の声と信仰
 実際に知多四国を巡拝した人々からの聞き取り調査でも、女性の巡拝が多いことが明らかとなった。主婦にとっては、何日も家を空けられないが、信心が名目なので出かけやすい、という利点があったのである。ある話者の「信心じゃないけど、遊びじゃない」という言葉に、知多四国巡拝の絶妙なバランスが表れている。
 巡拝のきっかけは、友人・知人の誘いのほか、身内の死去、自身や家族の大病の経験などが多い。巡拝を重ねるうちに病気が快癒すれば「弘法さんのお陰」となって信仰心が高まるのは必然であろう。また、納経帳に御朱印を捺してもらい、ページが埋まっていくことによる達成感が、趣味感覚で続けられる要素のひとつにもなっている。
 ある女性は、当時中学生だった娘がやりかけた納経帳があり、もったいない、という気持ちから巡拝を始めたのがきっかけであった。そのうちだんだんと熱が入っていき「時期になると弘法さんが連れていってくれる」というように、定期的に誘われるようになって巡拝を重ね、本四国巡礼も何度か経験したという。そんな中で良いことがあれば「弘法さんのお陰」となり、信仰心が高まっていくという循環が起こるのである。
(3)錦札への信仰
 錦札とは、100周以上巡拝した先達だけが持てる、錦の布を使った納め札のことである。これは本四国の遍路用品店で製作の取り扱いがあり、本四国の習俗が知多四国にも持ち込まれたものと思われる。
 錦札は名刺代わりに、各札所の納札所や売店など、日頃世話になっている人に渡すものであるという。100回以上巡拝したという功徳が錦札に宿り、お守りになる、とされている。先述のある女性は、息子が交通事故に遭った際に、これを持っていたのでかすり傷で済んだ、娘は旅行先に錦札を持って行かないと眠れない、といった話をしてくれた。また、錦札を持つ先達が、千回をめざして巡拝に出る準備をしていて「ぽっくり亡くなった」という話もあり、功徳のおかげで苦しむことなく大往生を遂げた、という美談となっていた。このほか、錦札はほぐして煎じて飲むと万病に効くなど、様々な功徳が語られている。

おわりに
 庶民による巡礼の旅は近世後期以降に盛んとなり、知多四国はそんな時代背景のなかで生まれた写し霊場のひとつであった。かつての西国巡礼や本四国巡礼は若者の通過儀礼でもあったが、明治以降の交通網の発達や旅行の一般化で、急速に観光化がすすんでいった。
知多四国も観光化により巡拝者を増やしたが、実際に経験者に聞き取りをしてみると、信仰的な要素が消滅したわけではないことが判明する。気軽な旅行としての需要に加え、信仰という大義名分があるため、女性(主婦)が出かけやすい点は注目される。きっかけは信仰ではなくとも、巡拝するうちに幸運や、災厄から免れるような経験があると「弘法さんのおかげ」となって信仰心が高まり、また巡拝回数を重ね、本四国への巡拝へつながる、といった話は多く聞かれた。
観光と信仰を兼ね備えた巡礼の民俗は、変容しつつもまだ生きているといってよいだろう。

【参考文献】
愛知県史編さん専門委員会民俗部会・『愛知県史民俗調査報告書5 犬山・尾張東部』編集委員会 2002 「春日井市松河戸の民俗」『愛知県史民俗調査報告書5 犬山・尾張東部』愛知県総務部総務課県史編さん室
柴谷宗叔 2008 「写し霊場と新規霊場開設の実態について」『密教文化』221号、密教研究会
橘 敏夫 2021 「観光資源としての知多四国―愛知電鉄と参拝案内―」『一般教育論集』第59号、愛知大学一般教育論集編集委員会
半田市立博物館 1998 『特別展 知多四国八十八ヶ所』半田市立博物館
半田市立博物館 1999 『特別展 知多の絵馬 参拝図を中心に』半田市立博物館
宮本常一 1984 「女の世間」『忘れられた日本人』(岩波文庫)岩波書店(初出1959『民話』13号・『読書新聞』)
八木 透監修 2021 『「札所めぐり」のひみつ 歩き方・楽しみ方がわかる本 朱印集め・寺社巡礼超入門』メイツ出版
山口由等 2019 「知多半島の巡礼文化と知多四国霊場」『四国遍路と世界の巡礼』第4号、愛媛大学四国遍路・世界の巡礼研究センター

【感想】
 今回の発表を聞いて、知多四国の霊場巡りをしていた明治44年生まれの祖母のことを思い出した。我が家の仏壇には弘法大師が祀ってあり、ときどき拝み屋さんのような年配の女性がやって来てはお勤めをし、終わると祖母と茶飲み話に興じていた。祖母はその拝み屋さんのことを「先生」と呼び、ときどき「先生」が組織した年配女性の仲間とともに知多四国や三河三弘法などにお参りにでかけていた。当時は年配女性が一人で巡拝の旅にゆくなどということは考えられず、集団での行動の方が安心で、話相手もたくさんいて楽しかったのに違いない。今回の発表でも指摘されたように、知多四国巡拝の主体は年配女性の集団であった。仏壇の下の引き出しには、霊場巡りで御朱印をたくさん捺した白い帷子が何枚も保管されていたが、祖母が亡くなった時、あれをお棺に入れてやったのかどうか覚えがない。
 一昔前、霊場の巡拝は講を単位におこなわれることが多く、講の存在は寺院にとっても心強いものだったようである。三河三弘法の一番札所である知立の遍照院での聞き書きによれば、以前は弘法大師の命日の時の参拝は講が主体で、新栄講、誠心講、一心講などの大きなところが100人くらいの規模で参拝に来たという。講に入っているのは女性が多く、講の世話人も親分肌の女性であった。世話人は強烈な弘法大師の信者の人で、自分の家でも弘法さんを祀り、仲間を呼んでお勤めをしたり、講員の相談に乗ったりもしていた。そうしたことが生き甲斐の人たちであり、彼女たちのおかげで大師信仰が広まったのだという。講の世話人は大勢の人をまとめていたので、行催事についても講の世話人に知らせれば伝わっていったという。我が家に来ていた拝み屋さんも、まさにそうした人の一人だったのだろう。
 時代は変わり、三河三弘法の巡拝でも近年は講が廃れ、集団の信仰から個人の信仰になってきているという。今回の発表でも、知多四国霊場はかつては講での団体巡拝が主流であったものが、現在は自家用車による個人巡拝中心に変化しているという指摘があった。講を組織していた「強烈な弘法大師の信者」はどうなってしまったのか、とても気になるところである。
(文責 服部 誠)

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