例会記録

2023年7月例会記録

「白鳥の拝殿踊りの現在」松田 篤(2023.7.26)

【はじめに】 
 岐阜県郡上市白鳥地区周辺に伝わる「拝殿踊り」は、盆を中心とした3ケ月ほどの間の特定日に、神社拝殿に上がって輪になって踊る踊りであり、広い意味での「盆踊り」とされるものである。また、旧白鳥町市街地では、同時期に町の辻や通りで輪になって踊る「町踊り」も行われている。「拝殿踊り」と「町踊り」はおおむね同様の曲による踊りであるが、全く同じものではない。「町踊り」は「拝殿踊り」を源流として変化し、現代化したものであるといえる。
 令和4年には「拝殿踊り」と「町踊り」が2年ぶりに開催された。密集と相性の悪い踊り行事がコロナ禍により休止となっていたためである。今回は発表者が、郡上市が実施している調査(令和2年度開始)に参加し、令和4年には実見した「拝殿踊り」(併せて「町踊り」)の現在を報告する。

【過去の経緯】
 一般に、近代以降、国(県)は風紀を乱すものとして、盆踊り(踊り)を強く規制していったものとされる。そうはあったものの、旧郡上郡はもともと踊りの盛んな地域であり、盆時期には「郡上踊り」に代表されるような踊りが各地で踊られていた。白鳥地区周辺でも盆時期に神社拝殿で踊る「オドリ」が盛んであったといわれる。大きな転機は戦中・戦後に訪れる。盆踊りは戦中には強い「自粛」が促され、担い手の若者が兵隊にとられたこともあり、しばらく開催できない期間が続いた。その結果、白鳥では戦後、盆時期の踊りは廃絶寸前であったという。踊りが一度完全に絶えたという地区もあり、現在踊りの姿が見られるのは、保存会の復興活動・継承活動の功績によるところが大きい。
 「白鳥踊り保存会」は昭和22年(1947)に設立された。以後、保存会による「白鳥踊り」の復興活動が行われていく。「白鳥踊り」は白鳥地域周辺に伝わっていた踊りと民謡を総称するもので、今日の「拝殿踊り」「町踊り」を含むものである。保存会が廃れかけていた「白鳥踊り」を復興・整備する過程で、その源流とされる「拝殿踊り」が重要視されていくようになっていく。「白鳥の拝殿踊り」は 平成8年(1996) には(白鳥)町指定文化財、平成13年には岐阜県指定文化財となり、平成15年には国選択無形文化財(指定名は「白鳥の拝殿踊」)となった。郡上市内の他の踊りも、各地域の保存活動が実を結び、「郡上踊」が平成8年に、「寒水の掛踊」が令和3年(2021)に国指定重要無形文化財に指定され、令和4年にはユネスコの無形文化遺産に登録されている。

【拝殿踊りの現在】
 現在の「拝殿踊り」は、おおむね8月盆時期の「町踊り」の期間中に、白鳥の町内、野添地区、前谷地区などの神社境内で催される。その他、周辺地域の複数箇所において拝殿で踊る踊りが行われており、地域によっては独自曲がある(あったとされる)など違いはあるものの、曲目などは概ねどの地区も共通している。大きな特徴は、踊り手が神社拝殿に下駄履きで上がり、そこで輪になって踊る点である。踊りの最中、拝殿の中央に大きな切子灯籠を下げるのも特徴で、拝殿踊りにおいては「拝殿中央に切子灯篭を下げるもの」と決まっている。盆(8月)の数日間や神社の「エンニチ」といわれる祭礼日などが「拝殿踊り」を踊る機会となる。
 踊りの日、辺りが暗くなってくると、神社境内にパラパラと人が集まり始める。拝殿の天井には、予め切子灯籠が吊るされており、午後8時頃には開始が告げられる。拝殿に上がった人たちは、楽器なしの人の声(オンドとハヤシ)と手拍子、足拍子だけで踊る。拝殿上という制限があるので、最大でも踊りの輪は3重くらい、多いと40~50人ほどが拝殿に上がる。拝殿に入れない人たちが、境内で小さな輪を作って踊ることもある。現在の進行・開催は保存会が主体となっており、踊りの曲目はある程度固定化する傾向にある。近年の踊りは必ず「場所踊り歌(バショウ)」から始まる。「場所踊り歌」は遡及可能な範囲での「拝殿踊り」の最古態を示すものとして、重要視されてきた曲で、他の曲目とは踊り方が異なる。踊り手は、体をゆらゆらと左右に揺らすだけで、手足の動きは極端に少ない。手振りはなく、両手を後ろ手に組む人も多い。足で少々前に差し出して調子を取るものの、動作は小さく、その姿は極めておとなしい踊りである。
 続いて、いわゆる「主要曲」とされる「源助さん」「エッサッサ」「ドッコイサ」「さのさ」「シッチョイ」「よいとそりゃ」「「ヨイサッサ」「猫の子」「ヤッサカ」などが踊られる。主要曲の他には「ストトン節」「ツーレロ節(ツーツーレロレロ)」などを踊ることもある。これらの踊りの所作には手振りが加わるが、同じ曲が使用される「町踊り」と比べて動きは少なく、手振りは「手は肩より上には上げない」といわれるように控え目となる。足拍子による下駄の音は、調子を取るためにも重要なものであるが、踵を上げ、つま先で床にコツンと叩くような鳴らし方は、床板を傷めることもあって、無作法とされている。拝殿では、摺り足でしずしずと踊ることが上手とされており、その過程で下駄が自然に床板に触れて、コンと鳴るのが奥ゆかしいものという。
 踊り歌は「オンドトリ(音頭取り・オンド)」と呼ばれる謡い手がうたう。これは固定の役ではなく、時期をみて「オンドを渡して」輪の中の誰かが謡い継いでいく。オンドトリは基本、一人で謡うものであり、複数人が和して同時にオンドを取ることはない。輪の中のどこに立つかは決まっておらず、輪の動きとともに進み、踊りながら謡う。誰がオンドを取っても良いが、オンドトリをするには経験と度胸が必要なので、それなりに慣れた人が務めることになる。別の人にオンドを渡す際には「私はもう疲れたので、誰か歌を継いでほしい」「私のオンドは飽きただろうから、誰か変わっておくれ」といった内容を謡い込み、これを別の人が「それでは続きをやりまする」「代われ代われというならば、代わりましょうか」といった返しを謡う(「受ける」という)ことで、オンドトリが交代となる。オンドを渡す際の掛け合いには即興性があり、当人同士が絶妙な掛け合い、くすぐり合いをして、周囲を沸かせることもある。その他の踊り手は「ハヤシ」と呼ばれる掛け声(合いの手)をフレーズごとに入れ、手拍子・足拍子とともに調子を取る。
 曲の謡い方は①「一口音頭」と呼ばれる7・7・7・5調子の小唄・戯れ歌様のもの②「クドキ」と呼ばれるストーリー性のある口説き歌、のおおむね2種類に大別される。「一口音頭」は「ヒトクチモン」とも呼ばれ、一フレーズが一首の小唄となっており、それで完結するため、いくつかの「持ち歌」を覚えれば、オンドを取ることは難しくはない。一方の「クドキ」にはストーリー上の連続性があるため、一通り覚える必要がある上に、ややテンポも速いため、難しさがある。「クドキ」の入る曲については、導入部分で寺社や名物などを1から10まで数え上げる数え歌を入れ、「宝暦義民」「平井権八」などの「クドキ」に移ることが多い。「クドキ」に入れば、物語が節をまたいで途切れることなく続くため、オンドトリの技の見せ所となる。長尺の「クドキ」は「あの人の鈴木主水のクドキは逸品だった」といわれるように、「拝殿踊り」の醍醐味とも呼べるものである。
 これらの謡い方は曲目によって決まっており、例えば「源助さん」は「一口音頭」で謡う曲である。一方、「場所踊り歌」や」「ヨイサッサ」などは「クドキ」を入れる曲となっている。現在の「拝殿踊り」では、白鳥地区に伝わっていた前述の主要曲が踊られ、郡上踊りの曲はあまり踊らない傾向にあるが、昔はそれほどこだわりがなかったともいう。また、「クドキ」が入る曲目については、踊りの佳境になると調子が速くなり、テンポアップする傾向あるが、これも近年の傾向であると聞く。過去には、踊りを終える時間は特に決まっていなかったものというが、近年は2~3時間で納まるような傾向にあり、踊る時間がある程度決められている。
 「拝殿踊り」への参加は自由で、誰が拝殿に上がって踊ってもよい。従来、当日の開催地以外のムラから踊りに来た人のことを「タショの人(他所の人)」と呼んでおり、「タショの人」が加わること前提で踊られたものであったし、反対に、今度はタショのエンニチに行って踊ることが楽しみであった。タショの範囲は、徒歩で行き来できる、行ったことのあるムラといったところで、昭和後半期になり自動車が一般化しても、踊りに行くムラは大体決まっていたという。現在、若い人たちは「町踊り」を経験し、そこから「拝殿踊り」へと入って来た人も多く、郡上踊りにも参加し、白鳥の町踊り・拝殿踊りをかけもちする人もちらほら見かける。一方、タショの人といってもほぼ郡上郡内に限定されていた昭和の頃とは違い、県内の他市町村、他県からの参加者が増加・定着してきている。東京など関東圏からの参加者もおり、見知った隣村=タショであった頃とは違って、現在のタショとは遠く広く白鳥地区以外の人を含む意味合いとなってきており、踊りの担い手の広域化が進む時代となっている。

拝殿踊り(令和5年)
拝殿踊り(令和5年)

【過去の拝殿踊り(聞き書き)】
 令和5年現在、聞き書きで得られる情報はギリギリ戦前の(話者の親の世代の)見聞き、ほぼ戦後・昭和30年代までであり、それ以前のことを把握することが難しくなってきている。遡ると「拝殿踊り」の呼称は聞かれず、戦前は「エンニチ踊り」「エンニチの踊り」もしくは単に「オドリ」「盆の踊り」などと呼んでいたようである。戦後になっても、町でも拝殿でも区別なく「オドリ」と呼び、時には「白鳥の踊り(白鳥踊り)」と呼んでいたといわれることから、「拝殿踊り」という呼称は、文化財の指定名称として、拝殿で踊る踊りとその他の踊りを区別する際に名付けられたものと推測される。時期ははっきりしないものの、平成8年の無形文化財指定時(白鳥町)前後から定着していったものといえるだろう。戦前は、盆の期間以外でも折々に拝殿にて踊っていたようであり、一概に「盆踊り」とはいえないかもしれないが、春や冬には踊らなかったと聞くため、ぼんやりと盆時期に集中して踊られるものとはいえる。
 拝殿で踊るというスタイルは戦前からのもので、参加者の履物が下駄履きであったことも一貫している。現在、踊り衣装として定着している浴衣については、戦後は意識されたようだが、戦前の様子ははっきりしない。一方で、踊りの場としては、寺院の庭など神社拝殿以外で踊ることもあったらしく、踊っている人たちが「神社拝殿で踊らなくてはいけない」と強く意識していたものでもないようである。現在重要視されている「場所踊り歌」については「聞いたことはなかった」「踊ったことは無かった」という地区もある。全ての拝殿踊り継承地区で「場所踊り歌」が元々踊られていたとは言い難く、保存会の復興・継承活動の過程で伝播したという側面があると思われ、検証が必要である。多くの地区で「場所踊り歌」ではなく、その時のオンドトリの気分により適当な曲で踊りを始めていたものという。
 「拝殿踊り」は「エンニチの踊り」と呼ばれるように、神社の祭礼日(エンニチ)の夜に踊るものであったが、従前より祭礼・神事は日中に行われており、神事の最中に踊るというものではなかった。踊りは神事とは別進行(現在も別進行である)であり、神事ではそれぞれ社事に関する役割分担があったが、踊りになると、ムラ内での役割分担も明確では無く、好きな人がめいめい集まって踊り始めるような態であった。踊りはある意味、祭礼の余興・娯楽だと思われており、神事の後、有志がその場に残って酒盛りが始まり、歓談するなか、「暗くなってきたのでそろそろ踊ろうか」という雰囲気で踊りが始まり、気が済むまで踊った。夜半すぎになると踊り手も疲れてくるので、踊り文句に「そろそろ終わろうか」と誰ともなしに入れ、踊りが終わった。いわゆる「徹夜踊り」のように、明け方まで踊るようなことはあまり無かったが、それでも遅い時には午後2時くらいまでは踊ったという。輪への出入りは自由なので、帰りたい人はめいめい好きなときに帰った。別に参加が義務付けられているものではなかったため、踊りに興味がない人は関わることがなかったともいう。
 踊りの際に拝殿中央に吊るす切子灯篭は、聞き書き可能な年代では「前からあった、吊るしていた」という地区が多く、古くから拝殿での踊りでは必ず吊るすものとされていた。大きさや意匠は地区によって差異があるものの、四方への張り出しがあるタイプが好まれる傾向にあったようだ。この切子灯篭は、元来は一回性の高いものであったらしく、毎年新しいものを作っていた(張り替えていた)とされるが、聞き書き可能な年代においては、同じものを補修しつつ使うようになってきており、現在は破損がなければ同じものを毎年使っているという。

白鳥神社の切子灯篭(令和5年)
白鳥神社の切子灯篭(令和5年)


 「拝殿踊り」を含む「白鳥踊り」は「オドリスケベエ」たちによって支えられてきた。「オドリスケベエ」とは「熱狂的な踊り好き」といった意味の言葉であるが、他称・自称の両方で使われる。揶揄(自嘲)半分、尊敬(自信)半分といったところで、決して悪い意味の言葉ではなく、むしろ誉め言葉として捉えられている。保存会設立以前は担い手の組織はなく、踊りを体系的に教授する場(別に練習する場)などは存在しなかった。踊りの準備、段取りなどは青年会組織が担っていたといい、踊り自体は各地の名だたる「オドリスケベエ」たちに支えられていた。若者たちは、親や兄弟に踊りを習うこともあったが、主には「オドリスケベエ」たちの仕草を真似て、見覚え・聞き覚えで所作や節回しを覚えていったという。日常の場で教授を乞うことは稀で、踊りの場におけるそれとない助言や誉め言葉がうれしかったと聞く。上手な謡い手へのあこがれ、「自分もあのように謡えるようになりたい」という気持ちが、習得への原動力であった。一口音頭やクドキの覚書・歌本類も「オドリスケベエ」の個人的な覚えとして作成されたほか、都市で印刷された出版物を手に入れて参考にした人もいたようだ。歌本は個人的のネタ帳だったが、親しい者に写しを取ることを許すこともあった。こういった覚書がいつしか仲間内で広がり、「オドリスケベエ」たちに引き継がれていったのである。いくつかの歌本が現在に伝わっており、その内容から「一口音頭」や「クドキ」の文句が一から地元で創作されたものばかりではなく、広く他地域の民謡・都会的な俗謡の影響を受けて成立していることを推測できる。
 「エンニチの踊り」は近隣のムラを相互に行き来して踊るところに醍醐味があった。ただし、昭和30年代だと、現在のように他県の市町村の人までは来なかったという。行き来の範囲はある程度決まっており、古くは徒歩で行き来が可能な範囲のムラまでで、車が普及してくると、業務用のトラックの荷台に乗ったりして、やや遠いところまで行った。踊りの日がムラごとに少し違うため、「オドリスケベエ」は夏の期間、方々を踊り歩くことができた。皆口を揃えて「実に楽しみであった」「待ち遠しかった」と語る。踊りに行った記憶では、「近所の若者で連れ立って」「同年代の友人や先輩に誘われて」といった経緯を聞くことが多く、踊りは主に若者の娯楽であったことを物語る。そのムラから見て、踊りに行く範囲のムラは商圏・通婚圏などが重なるものであり、日常的な交流があり、多少見知った人がいるものであった。このため、踊りの場はタショとの交流、男女の出会いの場としても機能した。タショの踊りに加わることは、よそのコミュニティの領域に踏み込むことであり、最初はおっかなびっくりであった。タショでオンドを取ることは緊張するものであったが、踊っている内に周囲の空気を読み、そろそろ行けるだろうと踏むと「オドリスケベエが今来たわいな」といってオンドに加わっていったものである。何度か顔を見せれば、「あれはどこどこのオドリスケベエや」と認めてもらえるようになったし、新たな歌を覚えることも出来た。「拝殿踊り」継承地域で、歌や踊りについて、過去にも一定の共通性がみられたのは、こういったタショとの交流が盛んであったことに起因する部分がある。

【町踊り】
 「町踊り」は盆時期に旧白鳥町市街地の通り・辻々で行われる踊りである。「駅前の踊り」「商店街の踊り」などとも呼ばれる。「拝殿踊り」との大きな違い(現在)は、①路上で踊ること②オンドトリが「ヤタイ(屋台)」と呼ばれる出車様の移動式櫓に乗り込み、そこで謡うこと③謡いに三味線、太鼓、笛といった鳴り物の伴奏がつくことである。踊りの輪に加わる踊り手は、オンドは取らず、ハヤシ(合いの手)と手拍子を入れる。「町踊り」は「拝殿踊り」が現代的に変化したものと捉えることができる。

町踊り(令和5年)
町踊り(令和5年)


 「町踊り」の歴史は戦後に始まる。踊りの場が町場に出たのは、昭和26年(1951)9月に白鳥駅前で「変装踊り」を踊ったことに端を発する。「変装踊り」は白鳥神社例祭の余興的な性格が強いものであったが、その後は毎年白鳥神社のエンニチ(例祭日)の翌日に駅前通りで行われるようになり、定着していった。現在の姿の原形となる町の辻での踊りは、昭和40年代に始まった。昭和40年(1967)8月の盆時期には、白鳥神社での徹夜踊り・橋本町での(町)踊りが初めて行われ、その後、「町踊り」の開催場所は急速に増えていった。昭和40年代のこの時期、「観光」という視点で地域の伝統を活かそうとする気風が活発となり、「町踊り」も白鳥区、商工会、中日新聞社の共催となっている時期がある。一時期は市街地以外の六ノ里地区や向小駄良地区、歩岐島地区の北濃駅前(越美南線)などでも踊ったこともあったといい、盛んな時期には旧白鳥町内の各所に「町踊り」の場が設けられていた。これらの踊りには、スピーカーやマイク、簡易櫓、鳴り物、電力照明が導入され、拝殿では踊らないものであった。なお、現在は旧白鳥町内各地域の「町踊り」は市街地周辺での開催に限られている。
 「町踊り」は、始めから現在の形態で行われたものではなく、戦後に保存会による試行錯誤が行われた結果、今のような形に落ち着いていった。三味線、太鼓、笛は「拝殿踊り」には元来無いもので、昭和22年(1947)の保存会設立後に工夫されたものという。昭和26年(1951)にNHKラジオの収録があった時には、他の民謡とともに白鳥の踊り歌を一部三味線付きで録音したというが、このような機会に初めて試みられたものらしい。歌が謡えて、三味線が弾ければ自然と伴奏をつけてみたくなるものであった。「ナリモノがあったほうが楽しい」「駅前の踊りは華やかだったので人が集まった」といった戦後復興期の若者の風潮は多くの人から聞かれる。
 また、「町踊り」は旧郡上郡で一番の町場である郡上八幡の「郡上踊り」の影響を強く受けている。伴奏が付くことや、囃子方が乗り込む「ヤタイ」を使うこと、「変装踊り」といった催し物なども「郡上踊り」が先行している。戦後の白鳥の人たちが新取の気風をもって様々な要素を検討していく過程で「郡上踊り」が参考とされるのは自然なことであった。実際に「郡上踊り」との境目はあいまいであり、昭和20~40年代の「町踊り」は「郡上踊り」の曲が踊られることで隆盛をみていたといわれる。
 一方、この過程で、白鳥町域に伝わっていた「場所踊り歌」「ヨイサッサ」「ヤッサカ」などの曲がほとんど踊られなくなっていき、しっかりと伝承すべきという声もあがるようになる。様々な要素を取り入れて面白くなればよい、といった風潮は、昭和後半期には白鳥らしさ、当地の伝統が意識されるようになっていき、「町踊り」の呼び方として「白鳥郡上踊り」といった名称が使われることもあったが、次第に踊りの呼称も「白鳥踊り」へと改められていく。このような経緯もあり、現在の「拝殿踊り」では「郡上踊り」との共通曲を踊る機会は少なくなっている(「猫の子」のみ共通曲)。一方の「町踊り」では白鳥の曲中心に踊る傾向にあるものの、一般に頒布されている歌本には「かわさき」「春駒」といった「郡上踊り」の主要曲が掲載されており、長丁場になれば踊るようである。こういった共通性から、「郡上踊り(徹夜踊り)」を入口として、白鳥の踊りに興味を持つようになったという人も多い。他県からの参加者には「郡上踊り」から「町踊り」を経て「拝殿踊り」へと参加するようになったという人もおり、「町踊り」は「拝殿踊り」への入口としても機能している。
 現在、「町踊り」は盆時期前後の7月下旬~8月下旬の間の内、20日間程度開催される。開催時間は午後8時~10時(11時)頃であり、開催日によってそれぞれ決められた場所で踊る。8月13日~15日は「徹夜踊り」の日となっており、この日は午前4時頃まで夜を明かして踊る。令和5年は駅前通り、道の駅清流の里しろとり、栄町、下本町、赤瀬通り、新栄町、橋本町、上本町、白鳥神社境内(拝殿には上がらない)で開催され、場所によっては幾度か会場となり、特に数回行われる駅前通りでの踊りは人出が多くなる。令和5年は7月22日の駅前通りで始まり、8月27日の新栄町で踊り納めとなった。
 踊りの輪は、昭和47年(1972)に制作された「ヤタイ(屋台)」を中心に作られる。「ヤタイ」は高さ5メートルほどの山車様の四輪車で、通常時は白鳥駅近くの白鳥おどり屋台会館に組み立てられたまま収蔵されている。「町踊り」の期間中には会館から曳き出され、開催場所の辻や通りに鎮座する。その日の踊りが終わると、次の開催場所へと移動させて待機となる。曳いて練るものではなく、囃子方が上がる櫓・囃子台といった役割を担うものであり、踊りの最中に移動させることは無い。「ヤタイ」は二階構造となっており、一階部分は機械室・道具入れ、二階部分は吹き抜けとなっており、囃子方は二階部分に上がり、向かい合わせに座る。三味線3人、太鼓1人、笛1人、歌(オンドとハヤシ)4人ほどが乗り込み、数時間であれば交代なしでオンドを取り、「徹夜踊り」の際には、囃子方は前半後半の二交代制になるという。現役のヤタイ以前にも先代のものがあったというが、簡易な造りだったといい、いずれにせよ「ヤタイ」使用の始まりは戦後からとなる。「ヤタイ」の形式は「郡上踊り」において同様の役割で使用される「踊り屋形」に類似しており、昭和47年という制作年代からも、先行する郡上八幡のものを意識して作られたと思われる。「ヤタイ」の中心には大きめの切子灯篭、「ヤタイ」軒の四隅には小さな切子灯篭が吊るされる。また、開催場所となるマチの通りには、これとは別に大きな切子灯篭が2つほど、道を横断する紐から吊るされている。道に吊るされた切子灯篭には、広告主の名が入っており「町踊り」が商店街の大売出しを兼ねて行われていたこと、観光行事の性格が強いものであることを感じさせる。
 「町踊り」は多い時には数百人単位の踊りとなる。踊りの輪の端の路上には、折り返し地点の目印となる提灯が置かれ、実行委員会の係が見守る。参加人数が多くなってくると、係が提灯を移動させて、範囲を広げ、通り全体に踊りの輪が広がっていく。輪が大きくなると、オンドトリの肉声は聞こえなくなるため、通りの各所にスピーカーが備えつけられ、「ヤタイ」からのオンドが町中に響くようになっている。「ヤタイ」に上がる数人のオンドトリは手持ちのマイクを回して謡い継ぐ。三味線や笛にも固定マイクが設置され、集音している。このように、「町踊り」は音響機器の使用や町明かりがあることを前提としたものであり、現代的な機器抜きには成り立たないものとなっている。
 「町踊り」と「拝殿踊り」の曲目はおおむね同じものとなっており、「源助さん」「シッチョイ」「八ッ坂(ヤッサカ)」「猫の子」「神代」「老坂」「世栄」「かわさき」「春駒」「場所踊り歌」「さのさ節(さのさ)」が主要な曲目である。主要曲の他には「ストトン節」「ツーレロ節(ツーツーレロレロ)」などを踊ることもある。この内、近年は「場所踊り歌」を謡う機会は少なく、最初に「源助さん」を踊ることが多い。「神代」「老坂」「世栄」はそれぞれ「拝殿踊り」における「ドッコイサ」「ヨイサッサ」「エッサッサ」と呼び方違いの同曲であり、「猫の子」「かわさき」「春駒」は「郡上踊り」との共通曲となっている。同じ曲の呼び方に違いがあることについては、古くは、踊りの曲の名前は定まっておらず、めいめいがハヤシ言葉の一部などで呼んでいたものといわれ、保存会設立後、曲名を聞かれた際に答えるために定める必要があった、という経緯によるものらしい。「神代」「老坂」「世栄」の曲名は、昭和20年代にマスコミや研究機関などに対して、対外的な呼称として伝えるために保存会のメンバーが格調高い字句を選んで命名したものであるようだ。
 「町踊り」は踊る場所が広いこともあって、手踊りの様相が強いものとなる。それぞれの曲に独自の振り付けがあり、脚運びについても「拝殿踊り」と比べると大振りな傾向にある。「拝殿踊り」においては、下駄を大きく鳴らすことは品がないものとされているが、舗装された路上ならば多少のことは気にならないため、自然と下駄の音も大きくなる。「拝殿踊り」においては、古くは上半身の動きは希薄で、手拍子以外に大きな動きはしないものであったといわれるため、振り付けはそれほど明確に決まったものではなかったらしい。現在の「町踊り」の振り付けは、戦後に保存会によって整えられていったものであり、踊りに合う手振り、周辺地域の踊りの振り付け、近代舞踊といった要素が複合して誕生したものと思われる。「郡上踊り」の振り付けが参考にされたかは不明だが、共通曲があることなどからも、影響はあったとみるべきだろう。
 「町踊り」は「拝殿踊り」と比べると全体にテンポが速いといわれるが、近年は殊にテンポアップの傾向が強く、「神代」「老坂」などの曲では、オンドトリが順々に謡いの調子を上げ、最後にはかなりの早口となっていき、終盤、踊り手たちは半ば走るような動きになる。これが若い世代には受けが良く、「神代」「老坂」の曲が始まると、若者たちが輪に加わって「ドッコイサのドッコイサ」「アラ、ヨイサカサッサ」と囃し立て、小走りになって踊る姿がみられる。昔から「町踊り」を踊っている人の中には「元気があるのはいいが、ちょっと騒々しい」という感想を持つ人もおり、捉え方は様々である。なお、昭和40年代には既に「マンボ調で若者に人気」という表現が使われているため、急に当世風の活発な踊りになったわけではなく、「町踊り」が始まった時点で、外部からみてテンポが速く、若者にも向いている、という認識はあったらしい。「町踊り」では囃子方が「ヤタイ」に乗り込み、ハヤシ(合いの手)がスピーカーを通じて町中に流されるため、路上の踊り手たちの発するハヤシは顕著ではない。このため、踊りと手拍子・足拍子に集中することになり、路上という空間的余裕も相まって、大振りな動作に繋がっているのではないかと思われる。
 オンドトリ、ハヤシといった要素の薄い「町踊り」は、誰でも見様見真似で輪に加わることができるため、参加のハードルが低く、例年多くの若者や遠方からの参加者で賑わっている。白鳥地区から離れた場所で日常生活を営む人たちが、趣味娯楽として踊りを楽しむと同時に、芸能の担い手ともなっている点が、変化をしながらも受け継がれていく、現代的な民俗の一面を描き出している。

【小まとめ】
 現在、白鳥の踊りは多くの人に愛され、踊り継がれている。今回、令和5年7月の例会にも、「拝殿踊り」に加わっているという「オドリスケベエ」たち(郡上市外から例年参加しているという)が数名参加していただき、オンドを実演していただいた。踊り手ではない発表者にとって、感覚的なご教授を頂けたことはありがたいものだった。
 調査にあたっては、誰しもが古態、元々の姿といったものを知りたくなるものであるが、聞き書きを行っていくと、保存会設立以前の様相をうかがい知ることは難しいと感じる。元来、この「踊り」は雑多で、細部は地域性に富み、流行に敏感で、画一性の薄いものであったものと思われる。ヒトクチオンドの流入年代はバラバラで、例えば「チョイナチョイナ」の節回しは「草津節」のそれであるし、「ツーレロ節」や「ストトン節」は近代の流行歌として広まったものである。古態とされる「場所踊り歌(バショウ)」は、戦後に各地区に伝播し、現在はもともと踊られていなかった地区でも踊られている。保存会自体が消えつつある踊りを復興しようという目的で設立されており、この時点で既に分からなくなっていたことも多かったのであろう。
 「拝殿踊り」の現在は、曲目や芸態の一部に残る近代以前の「踊り」の時期、新しい曲や芸態の導入に抵抗がなかった時期、「町踊り」の隆盛期など、幾度かの再編を重ね、変化してきた上に成り立っている。そのようななか、拝殿に切子灯篭を下げ、拝殿に上がって輪になり踊ることは大きく変化しない要素であった。「拝殿踊り」という呼称は、踊りを実見してみると実に適当であるが、文化財指定・保護の過程において、定着していった用語と思われることに対しては複雑な気持ちになる。研究者等の「指摘・指導」によって、シームレスだったものが括られていったのかもしれない。一方で、踊りの復興・伝承は、白鳥の先人たちが、対外的な広報活動、分類・整理・説明をしなければ到底無理であったろうとも思われ、シームレスなままでは現在には伝わらなかったであろうとも感じる。踊りは娯楽の要素を含む生きた民俗であり、今を生きる人にとって楽しいものでなければ続かない。闊達に変化していく「町踊り」と、ある時点でのスタイルを保持する「拝殿踊り」は、いずれもそれぞれに楽しい部分がある。この組み合わせは、実に妙と言えるのかもしれない。

(発表後の追加調査もあり、当日の発表レジメを大幅に改稿しております。ご了承ください)
参考:白鳥踊り保存会五十周年記念事業実行委員会編『白鳥踊り保存会五十年史』,1997


【感想】
 少し以前まで、夏になると近所の公園に櫓が組まれ、そこから放射状に紐をかけて提灯がぶら下げられて、町内の盆踊りがおこなわれていた。日にちは町内ごとにまちまちだったので、学区の中のいろいろな場所の盆踊りを梯子して回ることができた。町内の人が簡単な屋台を出し、飲み物なども売られていた。櫓の上では、浴衣姿の年配女性がテープに合わせて踊っていた。よく踊られたのは、1952年にできたという新民謡「名古屋ばやし」で、「名古屋囃子でよっさよさ、踊れや踊れ」という歌詞が耳に残っている。そういえば、「一休さん」も盆踊りになっていて、動きが早いため、踊り手の年配女性は息が上がると言っていた。1970年の頃は参加者が多く、踊りの輪は二重になっていたが、それが年々小さくなってゆき、会場に来ても遠巻きにして見ているだけで、踊る人はまばらになっていった。そんなことで、しだいに盆踊りは地域の公園から姿を消していった。何が原因だったのだろう。子どもの数が減り、楽しみにしていた人がいなくなったからだという人もいるし、高齢者ばかりの町内になって担い手がいなくなったからだという人もいる。いずれにしても、地域の盆踊りの衰退はコミュニティの崩壊と関連づけて説明される。であれば、ああした地域の盆踊りは、もう復活することはないのかもしれない。
 そこへゆくと、今回の発表の「白鳥おどり」はすごい。今夏の人出は3万人近かったというし、隣の郡上踊りは30万人だそうだ。消えてゆく踊りとますます賑やかになってゆく踊り。両者の違いはどこにあるのだろう。コミュニティの問題ではなさそうだし、伝統の差とも言えそうにない。キーワードは「オドリスケベエ」なのかもしれない。今回、「白鳥おどり」の発表があることを知って、名古屋民俗研究会の会員以外の方が例会の会場に足を運んでくださった。白鳥町在住ではなく、町外から「白鳥おどり」に参加されているのだそうだ。例会では歌も披露していただき、「白鳥おどり」が大好きなことが伝わってきた。「白鳥おどり」が、こうした「オドリスケベエ」の方たちによって支えられているのは確かであろう。だとすれば、どうすれば「オドリスケベエ」は誕生するのだろうか。このことは、多くの地域で祭りの衰退が心配されている昨今、民俗学の重要な研究テーマであることを感じた。松田氏の続報が楽しみである。
(文責・服部 誠)